AI時代でのCSへの向き合い方(2026年ver)

はじめに

2026年9月現在,めまぐるしく変わり続ける技術の傍らで,自分自身の思考の整理や,「これからの大学生活や研究,進路をどうしていこうか」という個人的な迷いや見取り図を,そのまま記録として残しておこうと思う.

ここ数年であったこと

まずは,AIおよびAIエージェントの爆発的な発展である. 記事執筆現在,OpenAIからは「GPT Astra」がリリースされ,並行して「Fable 5.1」のような次世代モデルが日常的に使われるようになっている. 局所的な技術トレンドで言えば,Typesafe社が「Jev」を発表して開発コミュニティが大きく湧いているという感じの時期. ローカルLLMの推論性能も飛躍的に上がり,手元の端末で高度なコード補完や数学的推論がかなり高性能に動くようになったという感じである.

こうした環境に囲まれる中で,便利さに圧倒されると同時に,「自分は何のためにコードを書き,何を学ぶのか」という感覚がふとした瞬間に揺らぐことが増えたように思う. めちゃくちゃ簡単に言うと「私ってAIの下位互換なのに,意味があるのかな?」である.

本題

1. 急速に更新され続ける「当たり前」

近年の大規模言語モデルの進化は,振り返ってみても極めて急速だった. 2年前の2024年9月,OpenAI社が推論(reasoning)能力を大幅に強化したモデル「o1」を発表した. それからわずか2年を経た今,後継モデルである「GPT Astra」は,当時のo1とは比べものにならないベンチマークスコアを叩き出している. 具体的にどれほどのスコア推移なのか評価しようと思ったが,そもそも評価に使われていたベンチマークそのものが次々と陳腐化・刷新されてしまい,もはや同条件での直接比較すら成立しない. それくらいAIは性能向上しているにも関わらずこれらのモデルの,APIの入出力コストは大幅に下がり,コンテキスト長もo1の200kからAstraの1.05Mトークンへと桁違いに拡大された.

また,AIエージェントの普及による影響も無視できず,登場初期には一部の無謀な試みに見えていた「Vibe coding」も,モデルの性能向上により, 現在では大半のプログラマーを凌ぐ実装速度と精度を獲得したように見える(もちろん,デザインや抽象的なUX設計など,領域ごとの得手不得手は依然として存在するが). さらに先日(2026年9月8日)には,OpenAIがミレニアム懸賞問題の一つである「ナビエ・ストークス方程式の解の存在と滑らかさの問題」の解法を公開したと発表するなど,高度な純粋数学の世界にまで機械の手が届き始めている.

2. 「AIに奪われない仕事」を探すべきなのか?

こうした劇的なブレイクスルーであるこんにち,プログラマーや数学者,研究者を中心に,困惑や警戒感が少なからず広がっているようにに感じる. 明確な統計データがあるわけではないが,自らの専門領域が次々と機械に代替されていくことへの徒労感や, 「もう人間が努力して学ぶ意味はあるのだろうか」というある種の諦念めいたムードが沈殿しつつ在るように感じる.テレンス・タオとかがAIは,発達を遅らせるべきーとかいうお話をしていたり...

そしてそんな中,そうした人々の議論が「AIに奪われない仕事・人間の強みとは何か」という問いに帰着しがちであると感じているが,わたしはそうは思っていない. 技術の進歩に伴い,「人間にしかできない領域」の境界線はどこまでも後退し,繰り返し引き直されてきたからである.

しかも,その境界の揺らぎは,人間の技能や創作物を評価してきた既存の制度の内側で,すでに起きている.

  • 2018年,GANによって描かれた「Edmond de Belamy」がChristie’sで予想価格を遥かに超える432,500ドルで落札された1.
  • 2023年のSony World Photography Awardsでは,AI生成作品がCreative部門の受賞作に選ばれた(後に作者自身が辞退)2.
  • 2026年の第13回日経「星新一賞」では,一般部門受賞4作のうち3作が創作過程で生成AIを利用していたと報じられた3.

これらはいずれも,AIの出力が人間の評価制度の内側に入り込んだ例である.しかし,上記の例にも差が在ると考えていて, 「Edmond de Belamy」や星新一賞は,AIの関与が明示されたうえで制度に受け入れられている. 一方で,写真賞は成果物そのものを見たときに,制度が人間とAIを「区別する能力を失った」例であると考える.

私が注目したいのは後者で,制度は,本来は人間の能力を測るための代理指標にすぎないが,私たちは日常的に,その代理指標のほうを人間の価値そのものとして参照してしまっている. 写真賞の例で言えば,作品が制度の基準を満たしていたことは受賞によって証明されたが,辞退によって,作品の出来栄えや質から「プロセスの責任」へと焦点が移ったはずだ. 私はこの辞退を,「この作品を誰が引き受けたのか」という責任やプロセスの軸が持ち出された先例として捉えている. 能力の差で区別できなくなったときに初めて,人間側の引き受けが重要になってくるのではないだろうか?

3. 音楽とプログラミングの差

では,私たちが普段感じる「AIに作らせると自分の仕事だと思えない」という感覚の正体は何なのだろうか.

私は普段,ピアノなどの楽器を弾くことがある. AIがどれほど美しい音楽を一瞬で生成できる時代になっても,自分で演奏をするとき,今のところは同じような違和感みたいなものは感じていない. 自分の身体で音を選び,時にミスをし,その失敗を含めてその場の演奏をしているという感覚が在るからだと考えている. すなわち,選択と失敗と引き受けが「演奏時間そのもの」の中に収まっており,自分の判断であることが既定なので,後から「どこが自分の判断だったか」を探しにいく必要がないはずである.

一方で,LLMを使ってコードを書いたり文章を生成させたりするときは,激しい揺らぎを感じる. プロンプトを入力し,出てきた出力を取捨選択しているのは自分であるはずなのに,なぜか「自分が作った」と言い切れない. 自分が生成していない無数の候補から採否を行う過程で,どこまでが自分の思考で,どこからが機械の出力なのか,判断の境界線そのものが曖昧になってしまうことが原因ではないかと考えている.

この引き受けの感覚を,私は「主体感(Sense of Agency)」と呼びたい.(心理学などで使われる「主体感」とは区別したい) この主体感は,

  1. 成果物のどの部分が自分の判断によるものかを,本人が後から特定できること
  2. それを特定したうえで,その判断を自らの意思で選び直せる余地が残されていること という,システムや環境が備える具体的な性質として定義できると考えている.

4. 最短距離で答えを出すことの代償

効率を求めてAIに判断を委ねることには,小さくない代償が伴う. L. Bainbridgeが古典的論文「Ironies of Automation」で指摘したように,自動化は人間が判断に関与する機会を奪い,長期的には人間の技能や状況把握能力を痩せ細らせてしまう4. 近年の研究でも,生成AIへの信頼が高まるほど,人間が批判的思考に費やす認知的努力が減退することが報告されている5.

最短の答えを一瞬で提示してくれるAIは,短期的には生産性を極限まで高めてくれる. しかしそれは,人間が迷い,比較し,選び直すという理解や主体感を育むためのプロセスを不可逆的なものにまでしてしまう可能性を秘めていると考える. 完了までの速さやミスの少なさと並べて,「その人が自分で引き受けたい判断が残ったか」を,これからのシステム開発やCSの評価軸(効用)に置けないだろうかと言うことなどを考えたりする.

5. 将来ビジョンとしてのCS:モデルの内側から「媒介の設計」へ

こうした状況を踏まえて,私はどうこれからのCSに向き合っていくべきなのか.

これまで私は,「より高速なアルゴリズム」や「より良いモデル」などにフォーカスをしていたが,もっと「媒介」としてのコンピュータに向き合うべきだと考えている.

現実の世界を観測し,数理モデルに落とし込み,計算し,可視化して人間へ返す.そのあらゆる変換のプロセスにおいて,情報は必ず不可逆な形で抜け落ちる(each transformation is lossy). 何が計算され,何が削ぎ落とされたのかを明示しなければ,受け取った人間はその結果を批判的に検証することも,自分の判断として引き受けることもできない.

だからこそ,私がこれから取り組み組むべきだと思うのは以下のようなものである.

  • 内側の不可視を捉えること(認知科学・HCI): 人間がどこで理解につまずき,どの判断を自分で下したいと願っているのかを,学習行動や操作ログを手がかりに推定・可視化する.
  • 外側の複雑さを人間へ翻訳すること(インターフェース設計・可視化): 高次元の計算空間やAIの推論過程を,人間が直観的に把握し,必要なときに介入・選び直せる形にして提示する.

AIモデルそのものの研究(NLPや機械学習)を深めることも魅力的だが,私が最終的に評価の対象として「人間」のことを考えることが重要なのでは?と考えるようになった. 人間が主導権を保ちながらAIと協働できるインターフェース(Human-AI Interaction)を設計したい.

おわりに

AIが産業革命以上のスピードで社会の前提を書き換えつつある現在,それを使って生き,決断し,社会を形づくっていく主体は,まだ人間のままである. 計算機が現実世界から退く見通しがない以上,計算機と人間の関係性そのものを問い直す学問は,むしろこれから一層重要になるはずだとも思うし,今後はそうしていきたい.


References

Footnotes

  1. Christie’s. (2018). “Can a portrait, created by AI, be called art?” ↩

  2. World Photography Organisation. (2023). Sony World Photography Awards 2023, Creative category. ↩

  3. 日本経済新聞社. (2026年2月20日). 「第13回日経『星新一賞』,グランプリにしゃみずい氏」. ↩

  4. Bainbridge, L. (1983). “Ironies of Automation,” Automatica, vol. 19, no. 6, pp. 775–779. ↩

  5. Buçinca, Z., et al. (2021). “To Trust or to Think: Cognitive Forcing Functions Can Reduce Overreliance on AI in AI-Assisted Decision-Making,” Proc. ACM HCI, CSCW1. ↩